2025年 年間標語 年間標語「強く、雄々しくあれ」(ヨシュア1章1~9節)
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『信仰的なエゴ』 牧師コーナー(781)
すべての教会がそうとは限りませんが、上流層の人が多く集う教会であればあるほど、信仰的なエゴが強いという話を聞きます。一時期、アメリカや韓国で教会に通うことが流行し、富裕層に属するたくさんの人々が集う現象がありました。イエス様の言葉の中に、富を持つ人であればあるほど、イエス様を信じることが難しいという話もあるので、ある意味このような現象はとても良いことだと言えるかもしれません。
しかし、残念ながら裕福なクリスチャンの場合、教会の内と外で全く犠牲を払おうとしない傾向があるそうです。教会の中で自分にとって益となることだけを求めて、犠牲を払おうとしない姿勢です。時には、教会の奉仕すべてをお金で解決しようとし、自分の体や時間に関わることではケチしようとする方がいます。
このような話を聞くたびに我が教会の信徒の方を考えますと、とても貴重で誇りに思います。大変なことにも積極的に模範を示す牧者ご夫妻、いつも厨房で労を惜しまない姉妹の方々、力がいるところでいつも仕えて下さる兄弟の方々、子どもの面倒を見ると落ち着いて礼拝を捧げられないのにそれでも仕えて下さる方々、このように自分を惜しまず仕えて下さる方を思うと、改めて我が教会に対する喜びと自慢したくなる心が燃えあがります。
私たちが健康的な教会の姿を持ち続けるために覚えなければならないのは、仕える姿勢を失わないことです。奉仕は、イエス様を信じるすべての人が持つべき基本の姿勢であると言えます。しかし、人によっては犠牲の伴う奉仕を避けようとします。自分の時間と物質的なものをまず確保して、その後時間的な余裕やお金が余る時、良い機会があれば自分の面子を立てようとして奉仕してみようと考えます。また、教会に来たついでにできる、具体的な自己犠牲を伴わない奉仕だけをしようとします。
ですが、必ず覚えてください。神様は犠牲を伴う奉仕を覚え、特に、目立たない小さな奉仕にこそ大いなる報いを与えてくださいます。ですから、小さなことでも犠牲の伴う奉仕であるならば、自ら進んで、喜びを持って仕えてみてください。このような姿こそ、神に喜ばれることであり、また私たちが神の祝福を豊かにいただく道であります。
しかし、残念ながら裕福なクリスチャンの場合、教会の内と外で全く犠牲を払おうとしない傾向があるそうです。教会の中で自分にとって益となることだけを求めて、犠牲を払おうとしない姿勢です。時には、教会の奉仕すべてをお金で解決しようとし、自分の体や時間に関わることではケチしようとする方がいます。
このような話を聞くたびに我が教会の信徒の方を考えますと、とても貴重で誇りに思います。大変なことにも積極的に模範を示す牧者ご夫妻、いつも厨房で労を惜しまない姉妹の方々、力がいるところでいつも仕えて下さる兄弟の方々、子どもの面倒を見ると落ち着いて礼拝を捧げられないのにそれでも仕えて下さる方々、このように自分を惜しまず仕えて下さる方を思うと、改めて我が教会に対する喜びと自慢したくなる心が燃えあがります。
私たちが健康的な教会の姿を持ち続けるために覚えなければならないのは、仕える姿勢を失わないことです。奉仕は、イエス様を信じるすべての人が持つべき基本の姿勢であると言えます。しかし、人によっては犠牲の伴う奉仕を避けようとします。自分の時間と物質的なものをまず確保して、その後時間的な余裕やお金が余る時、良い機会があれば自分の面子を立てようとして奉仕してみようと考えます。また、教会に来たついでにできる、具体的な自己犠牲を伴わない奉仕だけをしようとします。
ですが、必ず覚えてください。神様は犠牲を伴う奉仕を覚え、特に、目立たない小さな奉仕にこそ大いなる報いを与えてくださいます。ですから、小さなことでも犠牲の伴う奉仕であるならば、自ら進んで、喜びを持って仕えてみてください。このような姿こそ、神に喜ばれることであり、また私たちが神の祝福を豊かにいただく道であります。
趙 南洙師